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南部(みなべ)の歴史

南部(みなべ)は古くから紀伊半島南部の重要な拠点でした。
それは、弥生時代の銅鐸が数多く出土していることや、最近、縄文時代中期の西日本最大級の集落が発掘されたことからもうかがい知ることができます。

また、紀南地方では最も整然とした古代の条里制遺構が残されている地です。
早くから皇族の荘園が成立していましたが、鎌倉時代初期になって南部全荘は高野山領となりました。
南北朝時代から南部荘地頭や代官であった愛洲・野辺氏(岩代荘は岩代氏)の勢力が強大となり、15世紀中期には南部全荘を支配するようになりました。
野辺氏は平野中央に三重の堀に囲まれた国内有数の規模を誇る土居(城館)を築いていました。

関ヶ原の戦い後は浅野氏の支配下となりましたが、大阪の陣後、紀州徳川氏の家老 安藤氏の所領となり、南部組として大庄屋が30の村々を支配しました。
17世紀中ごろ7か村が紀州本藩に召し上げられた結果(上ケ地)、南部組、御上ケ地南部組の2人の大庄屋が置かれるようになりました。

明治になり大庄屋に変わって郷長が置かれるなど行政制度の改変があり、明治22 (1889)年の市町村制実施後、南部村(後、南部町)、岩代村、上南部村、高城村、清川村が誕生。

昭和29(1954)年には「昭和の大合併」によって、南部町が岩代村と合併し新制・南部町となり、上南部村、高城村、清川村が合併して南部川村が誕生しました。

そして、そろって合併50周年を迎えた平成16(2004)年、南部町と南部川村はいにしえのように一つになって「みなべ町」として生まれ変わりました。

平成16年10月「みなべ町」誕生

平成16年10月1日、南部町と南部川村が合併して「みなべ町」が誕生しました。
「みなべ町」が誕生するまでを、簡単に紹介します。

  1. 平成13年5月、田辺周辺10か市町村で「田辺周辺市町村合併協議会」設立。南部町、南部川村も参加
  2. 平成14年4月、「田辺広域任意合併協議会」が発足
  3. 平成14年6月、南部町と南部川村は「田辺周辺10か市町村合併協議会」への不参加を表明
  4. 平成14年7月、「南部町・南部川村合併研究会」を設置
  5. 平成14年11月、「南部町・南部川村合併協議会」を設置
  6. 平成15年1月、「南部町・南部川村合併協議会」が「合併まちづくりアンケート」を実施
  7. 平成15年5月、新町名を「みなべ町」、合併期日を「平成16年10月1日」と確認
  8. 平成15年12月、和歌山県知事立ち会いのもと、南部町、南部川村が合併協定書に調印。翌日、南部町、南部川村の両議会で合併関連議案を全会一致で可決
  9. 平成16年3月、和歌山県議会で、南部町と南部川村の合併議案を全会一致で可決
  10. 平成16年4月、総務大臣が南部町と南部川村の合併を官報で告示
  11. 平成16年5月、「みなべ町」町章決定
  12. 平成16年10月、「みなべ町」誕生

※ くわしくは、「南部町・南部川村合併協議会このリンクは別ウィンドウで開きます」のホームページをご覧ください。

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